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駄の日常…毎日の日記。
駄らだら、たからづか。…宝塚ファンの呟き

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だだ

Author:だだ
方向音痴で胃腸虚弱で臆病者の旅行好き

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アンケート
タシケントの空港で、帰りのフライトを待っている時のこと。
 「アンケートにご協力ください」
と話しかけられた。
キャッチセールスではなくて、
 「この国(ウズベキスタン)の観光に関してのアンケート」
らしい。
暇だったから用紙を受け取った。

 「観光客にとって、この国の良いところは?」
 「悪いところは?」
 「ホテルはどうでしたか?」
 「交通はいかがでしたか?」

などなどの質問に回答していくと、最後にこんなこ一文が。

 「ご協力ありがとうございました。
  もれなく抽選でプレゼントをお送りします!」

・・・もれなく抽選。
そしてメールアドレス欄はあれど名前を記入する欄はない。
あれ絶対、誰にも当たらないってことだよな・・・?

ウズベキスタン | 【2006-04-27(Thu) 10:26:42】 | Trackback:(0) | Comments:(6)
旅のはじまりは宝塚
♪ 行こうよ行こう、サマルカンドへ。
  赤いバラの咲く園へ 麗しい姫の住む城へ
  さあ行こうよ、行こうよ。
  
私のウズベキスタンへの旅はこの歌からはじまった。

宝塚歌劇でやっていたミュージカル『サマルカンドの赤いばら』。
砂漠のオアシス都市・サマルカンドを舞台に、お姫様や盗賊や魔法使いが活躍する、たわいもないが楽しいファンタジー作品だった。
私はこれが大好きで、ビデオに録って飽きるほどくりかえし見たものだ。
舞台をつくった演出家の大関先生は、当時、こう記していた。
 「中央アジアにサマルカンドという町があるという。
  たくさんのバラが咲き乱れる、美しい町だそうだ」
それで私は、その町が実在することを知った。
サマルカンドの赤いばら。
当時、私は13才。

1991年にソ連は崩壊した。
サマルカンドの都がある辺りは、ウズベキスタン共和国として独立した。
外国人の旅行は厳しく制限されていたが、ここ数年でかなり自由に旅ができるようになった。
今なら行ける。
私は、自分の足で、あのサマルカンドへ行くことができるのだ。
しかし期待が大きい分、ためらいもまた大きかった。
ビザを取るのもややこしい。英語だって全然通じないという話だ。私みたいなのがフラっと行って大丈夫だろうか。いつも即断即決で航空券を取ってしまう私が、めずらしくためらっていた。
決め手となったのは母の一言だ。
 「人生、いつ何があるか分からない。行けるうちに行っておきなさい。」
『サマルカンドの赤いばら』から15年が過ぎていた。



ウズベキスタン | 【2008-01-03(Thu) 19:41:54】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ギーチェ爺ちゃんの食卓
日本からウズベキスタンまで、行くのはわりあい簡単だ。
関西空港から直行便が出ていた。
飛行機で8時間、首都タシケントに降り立った。

・・・行くのは、簡単なのだが。
ここからがちょっと手こずった。
ロシア語圏はは初めてだ。
どこを探しても英語の入国書類が見つからない。
長い時間をかけてビザをとり、
長い時間をかけてリコンファームをし、
長い時間をかけて両替をして、
そのくせアッ!というまに白タクにボラれた。

予約していたホテル『マリカ』に着いたのが夕方5時。
真新しい、ぴかぴかのホテルだ。
晩御飯を7時に頼んで、散歩に出かけることにした。
アットホームなホテルで、
 「絶対ゼッタイ、7時には帰っておいでね!」
と念を押された。
子供みたいで頼りない私を心配してくれたのだろう。

秋のタシケントをそぞろ歩く。
日本より少し寒い。
ソ連時代の産物だろうか、画一的なアパートがならんでいる。
りっぱな並木からは枯葉がはらはらと落ちてくる。
街路樹を見上げながらゆっくり歩いていると、溝と言ってもいいくらいの小川で、網を構えている男の子を見つけた。
こんなドブ川にも何かが棲んでいるのだろうか。
前を歩いていたおじいさんが立ち止まり、私ににっこり微笑みかけて、
 「ブラックバス」
と言った。
魚がいるんだ。

おじいさんの名前はギーチェ。
いかにもロシア人らしい彫りの深い顔立ちと、穏やかな瞳、優しそうな雰囲気の紳士に見えた。
ただ、なにしろ英語が通じない。
「Dog」も「Hotel」もどんな単語も通じない。
ロシア語でぺらぺらとまくしたて、どうやら
 「ついて来い」
って言っているらしいと、ちょっとついて行ったなら!
誘拐された。
拉致られた。
停まっていたタクシーの中にぐいぐい押し込まれた。
白昼堂々、何するねん!
あの時はさすがにびっくりした。

言葉が分らないので泡をくったけど、ギーチェじいちゃんは悪い人じゃなかった。
ただ、遠い国から来た私と知り合いになって、夕飯もご馳走してくれようって、それだけのつもりだったのだ。
そんなこととは知らない私。
ロシア語会話集を開き、必死で問うてみた。
  「グチェ?(どこ?)」
  「わしの家」
タクシーを下りて、角を曲がってアパートの部屋に案内された。
部屋にあがるとベッドが2つ。
・・・ほっとした。
家族がいるんだ。
10畳くらいの居間には、床にも壁にも一面に赤い絨毯が広げられていた。
その芸術的な美しさに目を奪われていると、
 「わしのママだ」
と、相当なお年のおばあちゃんを紹介された。
来客には関心がなさそうで、ひたすらTVに見入っていた。
耳も遠いし、ひょっとしたら呆けているのかもしれなかった。

ギーチェじいちゃんは私をキッチンに連れていった。
 「夕食を食っていけ」
夕食はホテルに頼んであったし、7時には帰るようにとしつこく念を押されていたことを思いだしたが、断れる状況じゃなかった。
断っても許してくれる人じゃなかった。
献立は、
トマトと生タマネギのサラダ。
パンと甘いケーキ。
昨日のチキンをぶっかけた、ラグマン(うどん)。
どれもおいしく、本当に楽しい食卓だった。
が。
なにしろ言葉が通じない。
会話はすべて身振り手振り。
だが、国が違えばジェスチャーも違ってくる。
爺ちゃんが唇を指差すので、「旨いか?」と尋ねられたと思い、
  「旨い」
と肯くと、タバコを持ってこられた。
また、のどを指差すので意味がわからず首をかしげたら、ウォツカ持ってきて
  「飲め」
と言う。
アルコール40度の液体をストレートでグラスに注いで「さあ飲め」。
死んでしまいそうなので、さすがにこれは断った。

黄色くなった古い写真の束も見せてくれた。
家族の写真。
いろんな時代の家族の肖像だ。
爺ちゃんの若い頃の写真もあって、軍服姿がものすごくカッコよかったので
  「ハラショー!」
と褒め称えると、爺ちゃんは喜んで、いきなりほっぺたにスリスリしてきたので驚いた。
・・・ヒゲ、じょりじょり。
この写真はママの若い頃。
これは息子のコーシカ。
これは死んだ祖父の葬式。
これはワシの奥さん。
でも奥さんも息子ももう亡くなっているようだった。

そうこうしているうちに7時をまわった。
ホテルの人たちを心配させてはいけないから、そろそろ帰らねば。
だが爺ちゃんは
  「ぜひ泊まっていけ」
と言う。
私はまた会話集をひっぱり出す。
  「ニェート(NO)、ガスチーニツァ(ホテル)」
  「いや、泊まってけ」
  「ガスチーニツァ、ガスチーニツァ」
  「まあまあ、そう言わずに」
爺ちゃんは寂しいのだと、そのとき初めて気がついた。
奥さんも息子も死んでしまって、私はめったにない来客なのだ。
そして日本にいる祖父を思いだした。
祖父も、私が帰るときは今のギーチェと同じような目をして引き止めようとしていたっけ。
ギーチェ爺ちゃんも、寂しいんだ。
だから私を家に招いたんだ。
このドアを出たらもう二度とこの人には会えない。
つむじ風のように通りすぎていく、旅人でしかない自分がちょっと申し訳ない気がした。

それでも私は去らねばならない。
やっとのことで外に出ると、もう真っ暗になっていた。
送ってあげようと爺ちゃんは言う。
  「角を曲がって四軒目だ。角は散髪屋なんだ。
   タシケントに来たら、忘れずにまたおいで」
そうしてなぜか角の散髪屋に入る。
まるで時間稼ぎのように。
爺ちゃんは髪を整えて、格好つけてみたりしている。
散髪屋は楽しげに
 「ジャパン・ハラショー、合気道!」
とか言うておる。
そして3人で記念撮影をする。
約束の7時はもうとっくにまわっている。

やっとこさっとこ散髪屋を出て、道でタクシーを捕まえる。
手をとりあって、抱き合って、頬すりすりして、涙の別れというやつである。
でも私はと言えば、タクシーに押し込まれて以来びっくりしっぱなしで、わけがわからなくて、感情がついてこなかった。
ただ、ギーチェ爺ちゃんがとてもいい人で寂しいんだということしか、わかっていなかった。

ウズベキスタン | 【2008-01-03(Thu) 20:34:25】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
美しいヒヴァ
ウズベキスタン2日目。
ホテルからタクシーで空港へ向かう。
料金は約1ドル。

タシケントでは何度もタクシーに乗ったが、どういうわけか全てのタクシーのフロントガラスにひびが入っていた。
空港バスのも割れていたっけ。
しかも運転手は、
  「マジかよ」
とツッコミたくなるほどの高齢者。
80才は越えている。
いや、90も越えてるかもしれない。
ドッピと呼ばれる四角い民族帽をかぶり、足はジャージ履き。
小刻みに震える手でハンドルを握り、中央線ギリギリをきわどくかすめてつっ走る、超ベテラン運転手であった。
ものすごい怖かった。

タシケントから国内線で2時間、ウルゲンチへ到着。
そこから更にタクシーで観光地のヒヴァを目指す。

ヒヴァには城壁で囲まれた「イチャン・カラ(内城)」という町があり、
ここは町全体が世界遺産に指定されている。
町じたいが大きな遺跡なのだ。
そっくりそのまま中世そのもの!
たくさんのミナレット、メドレセ、家々の壁も石畳の道も、すべてがくまなく遺跡なのだ。
私が泊まった宿もこの世界遺産の中にあり、古い民家を改造したものだった。

ヒヴァの朝焼け


ヒヴァの町を一望する

イチャン・カラ内


カルタ・ミナル

夕日に染まるヒヴァを歩く。
カラスの群れが飛んでいく。
白い月がミナレット(塔)に寄り添うようにたたずんでいる。
美しい。
美しい町である。

浸っていると、
「ハロー」
と女の子が英語で話しかけてきた。
10才のナザカット。
学校帰りだそうだ。
写真を撮って住所書いて、
 「ボンボン(キャンディ)ちょうだい」
と言われた。
 「持ってないよ」
と言うとあっさりあきらめ、バイバイとほかの外国人を見つけて走っていった。
・・・なるほど。
ここの子供はそうやって商売をしているのかと、初日はそれだけで済んだのだけど。
彼女はなかなか商魂たくましい女の子だった。
明くる日も私を見つけると駆け寄ってきて、結局、
・・・いろいろ買わされちゃった話は、パス。
 
ナザカットから逃げ出してまもなく。
また別の子供につかまった。
今度は男の子だ。
シャハルーホ、9才。
可愛いらしい子だが、彼は物売りをする代わりに、
 「ボクの家でお茶でも」
と、自分の家に連れていった。
・・・なるほど。そういう手もあるのか。

なかなか凄いことだと、シャハルーホの家に上がりこみながら思った。
世界遺産の町に住む。
考えてみればこの家だって、建て直しを繰り返しながら、何百年前からここにあるのかもしれない。
中庭なんて発掘現場のようである。
いかにも古そうな井戸や、昔ながらの竃がある。
細かい彫刻の施された木の柱が、今もなお使われている。
宮殿やメドレセでも見られるようなものすごく古い柱だ。
そこに洗濯ロープをかけてピンクや紫のパンツを干している。

ジュマ・モスクの古い木柱


靴を脱いで上がるとたくさんの家族たちがいる。好奇の目がいっせいに私を見つめる。
 「こ、こ、こんにちは」
どうぞと居間へ通される。
大きな黒いストーブと、奥にテレビ、Wラジカセまである。
テレビに一番近い席におばあちゃんが座っており、その横に座れと言う。
 「そこはひょっとして上座では?」
と思いながら腰を下ろす。
TVでは白黒のインドのドラマをやっていた。
さしずめ、愛と死のサスペンス・ドラマと言ったところか。
小さな子供までがえげつない場面を必死になって見ている。
TVを見ながら、おばあちゃんときれいなお母さん、少年シャハルーホと彼の妹2人で、お茶を頂く。
ナンとクレープも出た。
 「ナンにコレをつけると美味しいんだよ、つけてみるかい?」
とおばあちゃんがスプーンを差し出すので、なめてみた。
 「うっ!」
ラードだ。

そのうちお父さんとおじさん、従妹達までわらわらと集まってきた。
 「日本人が来てるんだって?」
 「ニホンジン?」
小さい子供は靴のまま上がってきて怒られたり、お茶をひっくり返したりと、大騒ぎだ。
そのスキにおばあちゃんは私のお茶に角砂糖を2つも入れて、一人で喜んでいた。
 「うっ!」
甘い・・・。
お父さんとおじさんは、ガイドブックとロシア語の会話集を熱心に眺めていた。
彼らは英語はもちろんロシア語さえほとんど話さないようだった。

同じ「家に招かれる」のでも、ギーチェ爺ちゃんと少年シャハルーホとでは根本的に違う。
シャハルーホは数ドルの小銭がほしかったから声をかけてきたのだ。
でも民家を見学させてもらうのは楽しかったし、とても暖かく楽しくすごせたので、現金でお礼をすることに抵抗はなかった。



ウズベキスタン | 【2008-01-04(Fri) 19:32:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
「おしん」と呼ばれて
ウズベキスタン4日目。
ヒヴァをあとにしてブハラへ向かう。
私が旅した2002年当時はタクシー移動が主流で、
他国のバックパッカーはみんながタクシーをすすめてくれていた。
だが。
タクシーだと30〜60ドルかかるところが、バスだとたったの3ドルですむ!

バスはかなり古かった。
そろそろ引退させてあげたいような年寄りバスで、
何度も途中で停まったし、一度停まればもう動かない。
たまたまエンジンがかかった時にすかさず発車、という具合。
スピードもまったく出ないから、他の車にどんどん抜かれた。
タクシーをすすめられるわけだと思った。

乗り込んですぐ、周りの乗客が私に気づいた。
 「おまえは日本人か?」
 「日本人だ」
 「おい、こいつ日本人だってよ!」
 「ええっ、日本人なのか!?」
 「日本と言えば『おしん』よね!」
ということで、私は『おしん』と呼ばれることになった。
あとでおばさん達が私に『ラーノ』という名前を(勝手に)つけてくれたけど、
結局のところ私は最後まで『おしん』のままだった。
当時、民営バスに乗る日本人はまだ珍しかったようだ。
持っていた本やガイドブックは奪われ、たくさんの人が熱心にその写真を眺めた。
やがて一人のおばさんが、
 「おい、おしん! こっちに座れ。
  その男の横じゃ何されるか分からない」
自分の隣へ来いと言う。
それから、かつてこれほど『地球の歩き方』が活躍したことがあるだろうかと思われるほど「旅の言葉」(必要最小限のロシア語、ウズベク語などが載っているページ)を駆使して会話をした。
なにしろ長い旅路である。
時間はたっぷりある。
家族のこと、物価のこと、これまでの旅のこと。
私達は何時間も話をした。

彼女はシャハラーさん、45才。
シャハルは「町」という意味なので、日本語で言うなら町子さんか。
 「私はシャフリサーブズのバザールで米を売っている。
  月曜まで働いて、火曜にまたホラズム(ヒヴァ)に戻る。
  それまでにぜひ遊びに来なさい。いや、今すぐ、このまま来なさい」
シャハラーはさかんに家に泊まりに来いとすすめた。
 「ホテルは高い。うちならタダですむ」
いや、そうなんだけど。やはりブハラにも行っておきたいし。
 「ブハラはチューリ(砂漠)だ。何もないところだ。
  シャフリサーブズはヤフシャ(良い)だ」
サマルカンドは?
 「サマルカンドも、ヤフシャ(良い)だ。
  シャフリサーブズはサマルカンドのすぐ近くだ。
  来なさい、今、来なさい」
今、はちょっと困るので、月曜までにきっとに行くと約束をした。
シャハラーは
 「絶対においでよ。2人でおいしいスイカを食べよう」
と言って笑った。

長距離バス

(シャハラーおばさんと長距離バス)

ウズベキスタン | 【2008-01-06(Sun) 12:43:33】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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